ミライリポート ~SDGs企業に学ぶ~
有限会社 ヨークハウス 代表取締役 小中 儀明 氏
デニムのサムライ
寄らば斬る!そんな気迫を感じる。たとえるならば、サムライである。小中儀明氏。デニムのサムライ。
有限会社ヨークハウスの代表取締役として、東近江市八日市のほんまち商店街を拠点にアメリカンカジュアルウェアのセレクトショップ、縫製工房、それに飲食店を経営する実業家でありながら、自らは「ニードルワークアーティスト(縫製家)」を名乗り、毎日ミシンに向き合う。
小中氏との出会いはずいぶん前に遡る。この人を知って以来10年ほどになるだろうか。そのころから今日まで、いささかも熱量が変わらない。商売柄多くの「変人」に出会ってきたが、この人ばかりは、語の本来の意味において、「ヤバい」「アツい」。
白状すると、筆者自身、ジーンズを2、3本持ってはいるけれど、そこまでこだわりがあるわけではない。そんな素人が、「ハ日市にヤバい男がいて、スゴいジーンズをつくって、アツいプロジェクトを動かしている!」と、柄にもなく、こっちまでアツくなって、会う人ごとに言いふらしている。
誰をも虜にするジーンズ
小中氏、そして彼の率いる工房「CONNERS SEWING FACTORY(コナーズソーイングファクトリー/CSF)」が制作し「ONE-PIECE OF ROCK(ワンピースオブロック)」のブランド名で展開するジーンズやデニムウェアは、国内はもとより、世界中に熱狂的なファンを持つ。誰もが知るような国内外のスターやアーティストもファンのリストに名を連ねている。しかもそうした著名人が、「通販しない」という小中氏らのポリシーを良しとして、自ら彼らの店舗である「FORTYNINERS(フォーティナイナーズ)」まで足を運んで買いに来るという。あんな著名人がわざわざこんな地方都市まで、と驚く人もいるようだが、彼らの工房を見、また、そこで体現されるモノづくりのフィロソフィーに触れれば、それも当然だと思う。
黄金期の縫製環境を表現
商店街の中ほどにある工房は通りに面してガラス張りになっており、中を覗くことができる。覗けばまず、ひしめくミシンに圧倒される。ふつうのミシンではない。そこにあるのは、1900~40年代のアメリ力で実際に使われていた――つまり、ものによっては100年を超える年季の入ったミシンの群れである。決して飾り物ではない。この年代物のミシンたちこそが、小中氏らが信じるモノづくりを実現するための、必須のマシンなのである。
小中氏は言う。
「1940年代、とくに1940年から49年までの10年間が”デニムの黄金期”なんです。いちばん製品のいい時代で、生地、素材、縫製など、すべてにお金と手間をかけて作られていたんです」。
そんな「黄金期のデニム」を表現したい。そのために当時の製法、そして製造環境を徹底的に表現することにした。廃屋同然だった商店街の店舗を仲間数人と改装した。当時のミシンを探し出し、縫製から仕上げまでを個々の「ニードルワーカー」が一人で行う、世界にもまれな製法に挑み始めた。それが2013年。以来研究と研鑽を重ね、気が付けば、集めたミシンもいまや500台を数えるまでになったという。
黄金期の製品のなかでもとくにすぐれたものを”大戦モデル”という。「ここにあるのはちょうどその“大戦モデル”が作られていたころ、1942年から1945年のミシンです。ここは“大戦モデルが縫えるファクトリー”なんです」。
「いいものづくり」から「それでもいいものづくり」へ
「黄金期のデニム」を表現したいというのはわかるが、技術の進歩という点では、骨董品のようなミシンではなく、より新しい、最先端のミシンの方がよいのではないか?
ところが「最先端が必ずしも最良というわけではない」らしい。「というのは、この黄金期のあと、時代は高度経済成長期に入っていきます。それまでは、“高くてもいいもの”が必要とされていた時代です。とにかくいいものを作ろう、と。ところが、高度経済成長期になると、数を作れて”そこそこいいもの”が求められるようになっていくわけです。コストを抑えて”そこそこいいもの”をたくさん作れる仕組みに変わっていったんです」。そうした時代の風潮に合わせて、ミシンも「進化」していったという。
「つまり回転数を上げて、縫うスピードを上げるわけです。縫うスピードを上げると、綿の糸は切れてしまう。だからナイロンの糸に変わっていきます。ナイロンの糸に変わることによって生産性は上がりますが、風合いは悪くなるんです。また、スピードを上げると、縫い目にも締まりがなくなる。そうやって“いいものづくり”から”それでもいいものづくり”になってしまうわけです」。
「より早く」「より多く」「より安く」を追求し、様々なものごとが「ファスト化」する中、「絶滅危惧種だと言われるかもしれないけれど、ほんとうに良いと信じるものを伝えたい」。その一心で、世界でここだけの環境を実現させた。
商いの系譜
こんな型破りな人間がどのように生まれたのか、ずっと気になっていた。聞けば、小中氏の父で先代社長の儀隆氏が、日本のファッションカルチャーの礎を築いたとされるブランド「VAN」のジャケットを「バカ売れ」させ、6坪から始めた店舗を、湖東・東近江界随一の、ファッション・ライフスタイルの発信源にした。ちなみに母の昌子さんは京都の百貨店で売り上ナンバーワンの実績を誇る販売員だった。
店頭にミシンを持ち込み、いわゆる「吊るし」の服であっても、客の寸法に合わせてその場で仕立てなおす、といった具合に、顧客一人ひとりのニーズを叶えることを無二の喜びとして働く「親父とおかんの姿は子どもの目にも輝いて見えた」――そこには親子二代にわたる商いの系譜があった。
「中3の時にね、プレハブでいいから自分の部屋が欲しい、と言ったら、親父は急に図書館に通い出した。何を始めるのかと思ったら、自分で研究して家を建て始めた。驚いて、家は大工が建てるもんやろ?と言ったら、服屋が建てても家は家やろ。家は大工が建てるものとか、そういう考え方で生きてたら人生つまらんぞ!って」。結局親子で家一軒を建ててしまった・・・etc。痛快なエピソードは尽きない。
「デニムの聖地」へ、そして「近江デニム」へ
現代はまさに「コスパ」「タイパ」の全盛期。その一方で、小中氏らが体現してみせる価値観やスタイルに共感する若者も多い。現在彼のもとで働く弟子やスタッフはみな、はじめ客として彼と知り合い、彼とその仕事のとりこになって仲間入りしたのだという。
そんな仲間たちと次に目指すのは、東近江・八日市のまちを「デニムの聖地」にすること。
現在、日本で「デニムのまち」と言えば、岡山県倉敷市児島地区。小中氏自身、そこで研鑽を積み、また現在も、生地の生産・調達のためのスタッフを派遣している。自らの生まれ育ったハ日市のまち商店街を、児島に負けない場所にしたいという。その思いに共鳴して、例えば近江鉄道八日市駅では、駅員が小中氏らの制作したデニムジャケットを着て改札に立つ。
さらに、「真の聖地化」に向けて考えているのが「100%近江産ジーンズ」「近江デニム」のプロジェクト。耕作放棄地で、滋賀の土から生まれたいわば「滋賀綿」を育てるところから、糸、染め、織、そして縫製までの全工程を滋賀で行うことを目指す。
「のどかな田園を走るガチャコン(近江鉄道)。車窓から外を見ると、線路に沿って、数年前まで休耕田であった場所が畑になり、一面に綿花が揺れている。“近江デニム”と書かれた看板の傍らで、インディゴブルーの作業着を着た若者たちが作業している。沿線の別の畑では、染料に使う本藍の栽培もしているそうだ。近々、レトロな倉庫をリノベーションして、縫製工場が稼するという。加工している様子が電車から見えるかもしれない」ーもちろん、これは、架空の未来日記である。
けれども、100年前を目の前に再現してみせたこの人なら、そう遠くない未来に、そんな景色を見せてくれると思う。
企業データ
本社:〒527-0012 滋賀県東近江市八日市本町14-25
創業:昭和62年(1987年)5月
従業員:13人
事業内容: デニム製品等製造および小売業
公式ホームページはこちら>>
今回のテーマ